手入れすることで得ている木の存在感

植物

先日、戸外からエンジン草刈り機のような音がするので、朝早くから草刈りご苦労様だな、と思っていた。洗濯物を干しに外に出て、驚いた。岡谷ガーデンの東の塀の向こうの大きな木が切られつつある。あまりに木が大きいためか、枝をパーツに分けて少しづつ落としていくようだ。複数の作業員様で作業を続けておられた。アンが朝からビビっていた音は、エンジン草刈り機ではなくエンジンチェーンソーだった。

私たちがここに住んで9年目だが、塀の向こうのその空き地の所有者様には、まだ一度もお会いしたことがない。いきなり始まった木の伐採作業にびっくりした。

私の所有の木ではないのだけれど、毎日眺めていた馴染みの木だった。緑の植物は癒しだ。夏は木陰を作り、野鳥がやってき枝でさえずり、木についた虫や、熟した実を食べる。ただ、人の生活の中に植えられた木は、人による手入れが必要だ。冬には多量の落ち葉が落ちてくるし、いわゆる害虫が多量発生したりする。

人の脳は恒常性を保とうとする。変化を嫌うのだ。今まであった風景が変わってしまったことに、慣れるのには時間がかかると知った。

私の体を私は認識していて、手の先、身体の端っこまでが私なのだけれど、自分の敷地に木を植え日々その庭で生活していると、その庭も、私の体の一部、身体が延長された、いな、内なる世界が広がったような気がする。敷地から一歩外に出ると、そこは外の世界と認識する、不思議。

アクティブでどんどん外の世界を楽しまれれる方は内なる世界が広がると思う。

私と外の世界を隔てていた木がなくなると、私の世界と外の世界とが繋がったような、意識がわいてくる。やがて、それも慣れていくのだろうか。

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